「ノーモア・ヒロシマ」のまやかし2009/08/07

毎年8月を迎えて、新聞やテレビで原爆の被害、平和の訴えを目にするたびに、説明のできない違和感を俺は覚えてきた。原爆の犠牲者になった広島、長崎の方々。その被害は当時生存していなかった人々にまで広がる。今年はNHKはハリウッドスターとやらの渡辺謙さんで盛り上げるようだ。NHKも民放も、このパターンの原爆特集はとてもお好きなようだ。しかし、「ノーモア・ヒロシマ」、「ノーモア・ナガサキ」は何かが違うのではないか。

この違和感は戦中の従軍慰安婦などの、日本の戦争責任の問題と重なると余計に強くなってくる。何かが違う...

東京裁判には「人道に対する罪」とやらがあった。実際には、この罪で罰せられた日本軍人はいなかったようだが、米軍占領下のイラクのフセイン裁判ではフセインは「人道に対する罪」とやらで有罪とされ、処刑された。

フセインに死刑求刑、イラク住民殺害で人道に対する罪
http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4500/news/20060619i214.htm

日本に対する原爆投下は、この「人道に対する罪」そのものではないのだろうか。それも最大級であり「超」がつく。従軍慰安婦を軽く見ているわけではないが、彼女らの被害は一代だけ、実質的には彼女たちだけだ。しかし、原爆による被害は、当時子供で戦争が何であるかも理解していない、また当時生存していなかった世代にも及んでいる。これを「人道に対する罪」と言わずに何というのだろうか。

日本政府は、また被爆者団体は、従軍慰安婦と同じように、なぜ米国政府を、日本への原爆投下に関わった者たちを「人道に対する罪」で告発しないのだろうか。なぜ賠償請求訴訟を米国で起こさないのだろうか。なぜ、この問題を米国の法廷に持ち出さないのだろうか。残念なことに、現実の法廷でこれが行われた例を俺は知らない。

もし、日本政府や被爆者団体が本当に原爆の悲惨さを世界に訴えたいなら、米国の法廷に持ち出し、争うのが世界にその悲惨さを伝える最善の方法ではないだろうか。俺には、日本人に責任を求めるかのような「ノーモア・ヒロシマ」は国内向けのまやかし、プロパガンダに見える。

コメント

_ 神粘土 ― 2009/08/07 13:37

阿修羅の政治板でみかけたので一言コメント。
 
■C級戦犯は“平時”に虐殺を実行した人が対象で、一般戦犯であるB級戦犯とは区別される。原爆投下は平時ではなく戦時における交戦行為であるから、もし仮にそれが交戦規定に違反していたのならB級戦犯と考えられる。が、当時の国際法において核攻撃が交戦規定に違反したとの事実は無い。
■C級戦犯で罰せられた日本軍人がいなかったのは事実だが、C級戦犯で罰せられる“べき”日本軍人はいたし、連合国はその存在を承知しながら起訴しなかった。(例:兵器開発と称して人体実験を行っていた軍人など)
■広島・長崎に対する核攻撃が行われた当時、核兵器の使用に関する特別な国際法は存在しなかった。連合国は通常の交戦規定どおりに核兵器を用いて攻撃し、しかもその攻撃を事前に知らせていたという事実もあったため、交戦規定違反(C級戦犯)として裁判を求めた人はいなかった。
■原爆投下は、広島については3日前から、長崎については2日前から朝・昼・晩の3回、延べ6回に渡って連合国の「ニューディリー放送」によって予告がなされていた。また放送を聴いていない住民のため、広島では3~4日前から原爆投下の予告のビラが撒かれた。その他にも事前予告はあったとされる。しかし大日本帝国政府はこれらの予告を無視して広島・長崎の住民避難を実施しなかった。いずれにせよ予告の上での攻撃であり、通常の交戦規定通りの攻撃であるため、交戦規定違反として原爆投下実行者を国際法違反=戦犯として裁くことは困難だった。
■核攻撃実行者に対する起訴という行為に国際法的な意味は無いが、“政治的意味”があることまでは否定しない。しかし、政治的意味を求めるならば、裁判・戦犯処理という方法以外での“政治的解決”を選択する方が効果的・効率的。(例:原爆保有国との国交制限、日米安全保障条約の破棄など) だがそれ以前に、非核三原則などの最低限の非核政策を被爆国政府が実行できないという政治的課題を先に解決しないまま核保有国に政治的解決を求めても説得力がない。
■核兵器の開発・所有・使用を違法化する国際法は、開発については国際法としての規定があるが、所有・使用の違法化についてはいまだ検討中の軍縮課題とされる。そういう国際法における核軍縮を実現するためには、いたずらに裁判を提起するよりも、米国政府との関係を緊密にして核軍縮を求める方が核違法化という最終的ゴールに近づくとの“政治的選択”もある。問題はそういう政権を日本国民が選挙で樹立することができるかどうかだ。

_ masa ― 2009/08/07 18:04

コメント有り難うございます。しかし、ポイントが外れてますね。記事中で取り上げさせていただいたので、そちらをお読みください。

_ zames_maki ― 2009/08/08 15:31

こんにちわ、あなたのブログのタイトルに惹かれて読む方も多いと思うのでコメントします。

>新聞やテレビ-に説明のできない違和感を俺は覚えてきた
>「ノーモア・ヒロシマ」、「ノーモア・ナガサキ」は何かが違う
◆あなたの違和感は正しいでしょう、日本政府は本気では核兵器反対の運動を行っていません。
 これは例えば国際司法裁判所?で「核兵器は国際法違反であるか否か」が検討された時、日本政府は違法であるとは主張しなかった事で端的にわかるでしょう。この時広島・長崎の市長は違法であると強く主張しています。第3者的に観察すれば日本政府は口先では核兵器反対を唱えてきたが、実際の行動ではアメリカに追従する事で核兵器を利用してきと考えるべきでしょう。そして今現在も実際には反対していないといと認識すべきです。むしろ自民党政権は60年代に核兵器所有の検討もおこなった事があるのが専門家の研究では明らかにされています。(参照「核兵器と日米関係:アメリカの核不拡散外交と日本の選択」 黒崎輝 有志舎 2006)


>日本に対する原爆投下は、この「人道に対する罪」そのものではないのだろうか
◆核兵器がこの上なく非人道的な兵器であり、その使用が「人道に対する罪」であるのもまったくその通りです。
 毒ガスが国際法で禁止されているように、核兵器はそれが「非人道的」であるが故に禁止されるべきです。また1945年に核兵器を使用したアメリカ当局者はその違法性を十分認識した上で使用しています。ベトナム戦争を国防長官として指揮したR.マクナマラ氏は、戦争中は日本に原爆を投下したB29部隊の参謀的立場にあり、戦後「負けたら俺たちは戦犯だ」と指揮官が話していたと回顧しています。これはマクナマラのドキュメンタリー映画「フォグオブウォー」で述べられています。この述懐なぜか日本ではまったく注目されていませんね、しかしこうした過去のアメリカ人の認識を知れば今もアメリカ政府がけして広島・長崎に対し融和的態度をとらないのも容易に理解できるでしょう。アメリカ人も含め核兵器は国際法違反であるのは議論の余地ない所でしょう。ただそう宣言すると現在の秩序が崩れるから言わないのでしょう。


◆上記の国際司法裁判所の結論では核兵器の違法性は明確には示せませんでした。しかし市民団体は違いますね。
 私の記憶では90年代に市民団体の主催した民衆法廷で広島・長崎の原爆が裁かれ、それが違法であり使用者は有罪であることが宣告されたと思います。こうした運動は従軍慰安婦問題でも行われ、2000年に市民団体による民衆法廷で従軍慰安婦制度が裁かれ、昭和天皇に有罪が宣告されています。この裁判は「女性国際戦犯法廷」の名で知られそれを国民に知らせるNHKの番組が安部晋三などの右翼(安部晋三は本当に日本会議という右翼団体の賛同者)により、大変な抑圧を受けました。これは従軍慰安婦問題に関心のあるあなたならご存知かもしれません。もし日本政府が本気なら核兵器は国際法で禁止すべきだと粘り強く運動すべきでしょう。


>「ノーモア・ヒロシマ」は国内向けのまやかし、プロパガンダに見える。
◆人々が核兵器に反対するには様々な理由があるように思います。
 オバマ大統領は本心ではその残酷さ故に廃止したいように思いますが、実際の政治活動ではテロリストなどによるアメリカへの核兵器攻撃の可能性を減らすという、高度に政治的な理由のために廃絶したいように見受けられます。日本人の多くはそれが残酷だという非常に素朴な感情的理由や、素朴な平和主義(自国の憲法を尊重するならそれは正しい行為ですが)から反対しているように見えます。そしてあなたは核兵器が非人道的だからという理由で反対しているようですね。私は、核兵器反対の理由はなんでもよい、廃絶さえできればよいと思います。

◆大事なのは、核兵器反対というのは非常に政治的な運動だ、という認識を人々が持つ事だと思います。
 卑近な例で言えばそれは郵政民営化に賛成か反対かと同じように、主張する者にそれなりの判断と政治的意思が求められる行為だと言うことです。これは昨日も広島市長がテレビのインタビューで述べていました。ただなんとなく核兵器反対と言えばなくなるものではない、政治的に運動しなければいけないという事ですね。

あなたは政治に関心があるようですね、上記を理解され今後も核兵器廃絶に向け、あなたの主張を広めていただきたいと思います。それが政治的活動につながり日本政府を、そして国際社会を動かすのではないでしょうか。

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